<ハイブリッド経済(6)>音楽を囲むフェスからテクノロジーを囲むガレージへ。コミューン第3の現場。
コミューン第1の現場は農業を中心とした共同生活でした。これはカルト色も強く社会的問題も引き起こしました。第2の現場は音楽を中心としたフェスの文化。ここでは常時一緒に過ごしていなくても、フェスのタイミングで自分たちの縄張りをつくって臨時コミューン、共同体意識を再確認していた、そして自分たちの主張を強化していったものです。
第3の現場の中心はテクノロジーでした。そして物理的な場所はフェスからガレージへ。
Stay Hungry, Stay Foolishの影響
アンチベトナム戦争の影響でアンチテクノロジー一色だったヒッピーのムーブメントはどのようにテクノロジーを受け入れていったのでしょうか。最も大きな影響のひとつはスチュアート・ブランドのWhole Earth Catalogです。
彼自身もヒッピー代表でしたが、この本の影響はのちにスティーブ・ジョブズやウォズニアック、ビル・ゲイツの所属するホーム・ブリュー・コンピュータ・クラブの結成につながりシリコンバレーの基礎をつくっていきます。
この様子はバトル・オブ・シリコンバレーという映画を見るとわかりやすいです。(AppleとMicrosoftの戦い)
また、当時完全にヒッピーで「テクノロジーは回避するものだと思っていた」と言っていたケヴィン・ケリーをまさかのテクノロジーと文化の雑誌WIRED創刊へ向かわせます。(彼の話は大好きなので、また別に機会にどっぷりと。)
ちなみにケヴィン・ケリーはWhole Earth Catalogの編集者で、スチュアート・ブランドはWIREDの編集者もやっていました。
何が彼らをそこまで駆り立てたのでしょうか。
民主化の熱と適正なテクノロジー
アンチテクノロジーは政府や大企業を彷彿とさせるものだったために生まれた考えでした。しかしスチュアート・ブランドはWhole Earth Catalogの中で「適正なテクノロジーは僕らの生活を豊かにしうる」というメッセージのもと家をつくったり自然エネルギー活用したりするDIYの方法を紹介していきました。
要はヒッピーの精神の根本は「民主化」です。そしてコンピュータ、インターネットの精神も民主化です。相性が良かったみたいですね。
インターネットのはじまりは軍事目的のARPANETでしたが、当時MITの大学などが学術用に開発を進めていました。当時学生で大学から開発を依頼されていたリチャード・ストールマンはその際「コンピュータの前では誰もが平等であるべき」という考えのもと、パスワードの概念を盛り込むことをしませんでした。その後に大学側が管理システムの一部にパスワードをかけましたが、彼はそれを突破して「入力の手間が省けるようにパスワードを""=空欄にしておいたよ」とメールをします。クラッキングの興りですね。
彼はその後フリーソフトウェア財団をつくりますが、今ネットで無料のソフトが当たり前に手に入るのは彼の思想の影響も大きいです。Linuxの大きな部分を占めるGNUの開発者でもあります(というかもともとそっち)。ただ、かなり極端な思想だったため、その後オープンソースの流れとは袂を分かちます。
前日本語版があったんですが、今英語しかものの、Revolution OSはこのあたりの話をドキュメンタリーでまとめていて非常に面白いです。Linuxとオープンソースの話です。これもまた別の機会にどっぷり書きます。
コミューン第3の現場、ガレージ
とにもかくにもこれ以降Google, Apple, Amazon, ヒューレットパッカードなどに代表されるガレージベンチャーが次々と生まれてきます。
こういう経緯があるため、ITの世界は根本からしてハイブリッド経済です。そのおかげで商業経済の人間には理解ができず(無料でソフトをつくる人たちが市場を荒らしている、無料で動画をアップする人たちが市場を荒らしている)、また法整備も追いつかず、急激な成長とともに様々な軋轢を生み出していきます。
ここではITの文化がつくるハイブリッド経済の中身だけ整理するにとどめます。
商業経済・・・ハードウェア・ソフトウェアの販売、サービスの販売
共有経済・・・無料でオープンアクセスなソフト、データ、好奇心、自分のためにつくったものでもみんなに改善・メンテナンスしてもらうためオープンにする人たち
現場・・・ガレージ
もうすぐコワーキングスペース、ハッカースペースがこの文脈に接続されます。次の記事でかけるかな・・?書きながら考えてみます。
<ハイブリッド経済(5)>フェスに見る商業とコミューンの融合
僕は音楽はできませんが、いろんな意味で常に注目しています。
ひとつは著作権はじめネット化するビジネスの影響を最も先に受けて、最も先に解決を試みなければならない業界だからです。
もうひとつはこれだけ長い世界史の中で宗教の影響が少ない時代はないと思いますが、それと似た影響力を持っているのが音楽だと思うからです。
音楽業界は現在ハイブリッド経済を予想する上で一番良いケーススタディになると思っています。
ウッドストックフェスティバルとは何だったのか
ウッドストックは1969年にニューヨークで開催されたカウンターカルチャーを代表するイベントです。全米から40万人の人が訪れました。40万人っていうどういうことかというと、カオスだったStarlight Runが6700人だったので、これが60個同じ場所で同時開催されているということです。
Starlight Run 2014 Christmas Running - YouTube
ヒッピー文化の一つの特異点です。半数が無料でなだれ込んできたそうですが、それでも約20万人がチケットを購入して入場しています。商業的には大成功です。何がこれを実現したんでしょうか。
これを理解する為にこの本を読んでいました。
この方はロックの方ですが、フェスの歴史からAKB Exile以降の流れも汲んでいて非常にわかりやすかったです。
簡単に言うと農業コミューンをやれなかった、やらなかった人たちが音楽を触媒にしてアンチベトナム戦争を唱えた、それが商業ベースにもうまく乗ったということです。
ヒッピー文化とコミューンとテクノロジー
ヒッピー文化は、きったない人たちというイメージかもしれませんが、わかりやすくいうとアンチベトナム戦争です。正義のない戦争、徴兵に対する運動として「LOVE&PEACE」を掲げて動いていた人たちです。
アンチキリスト教の勢いで東洋の宗教の流れを汲んで、ドラッグなどで覚醒・悟りをし、自然へ回帰しようという人たちでした。農業を中心にコミューンをつくり、カルトなどもたくさん生まれ社会問題にもなっていました。
と、書くとなんだか危ない人たちのようですがジョン・レノン、ニール・ヤング、ジョージ・ハリスンなど一般に影響力の大きい人たちも多くいます。忌野清志郎もそうですね。日本語だとフーテン。寅さんですね。
ヒッピー文化の最後の残り香を受けたのはスティーブ・ジョブズ。インドに行ったり禅にはまったり瞑想したり、ドラッグもやっていましたね。彼のスタンフォード大学でのスピーチで有名な「Stay Hungry, Stay Foolish」はヒッピー代表のスチュアート・ブランドのWhole Earth Catalogから来ています(これはアンチテクノロジーのヒッピーの流れを変えて今のシリコンバレーの基礎にもなっているホーム・ブリュー・コンピュータクラブ、WIREDへと繋がっていきますがそれはまた違う時に)。
スティーブ・ジョブス スタンフォード大学卒業式辞 日本語字幕版 - YouTube
Whole Earth Catalog Stay Hungry Stay Foolish
(ちなみにこの地球見たことありません?iPhoneの背景にそっくりですね。)
スチュアート・ブランド以前は特にアンチテクノロジー、農業回帰が主流でした。農業を中心とした小さな村へ還ろうという話です。
でも、みんながみんなそんな極端なことはできない。でもコミューンのような体験をしたい。それの受け皿になったのがウッドストック・フェスティバルだったと言えます。
フェスは臨時小規模コミューンの受け皿
フェスに行ったことのある人は実感があるかもしれませんが、フェスはただ音楽を楽しむ場ではありません。むしろテントを張って野営して、7−8人くらいの仲間で騒いで、遠くの会場で音楽が鳴っているという非日常の世界観を楽しむ人のほうが多いんじゃないでしょうか?
アンチベトナム戦争、LOVE&PEACEという思想を中心に置き、音楽を囲み、その世界観の中で自分の人生を再発見するというのがフェスだったようです。
これはその精神がエチオピア難民救済に移ったあとにはライブ・エイドとして。日本では環境問題を中心に置いてMr.Childrenの桜井さんが活躍するap bank fesなどとして後に続いていきます。
これのハイブリッド感はこういうことだと思います。
商業経済・・・ライブチケット
共有経済・・・同じ思想の普及、共感、仲間との絆を深める、社会的なアクションにつなげる
グレイトフル・デッドのハイブリッド経済
これは、収益をライブのみに絞った1965年に結成したグレイトフル・デッドが個別のビジネスモデルとして先んじて成功させています。その内容はコピーライターの神・糸井重里さんが絶賛するこの本で詳細に語られています。
- 作者: デイヴィッド・ミーアマン・スコット,ブライアン・ハリガン,糸井重里,渡辺由佳里
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彼らはCDを無料で配布する、ネットでも配信するなどしてコンテンツとしての音楽を無料開放しています。しかし、デッドヘッズというコアなファンを大量に生み出し結果的にビートルズやストーンズよりも商業的に成功することになりました。
ツアーのキャラバンは、ファンとバンドがいっしょに作り上げる「真のコミュニティ」であり、熱狂的なファンである「デッドヘッズ」たちには、サイコーに素晴らしい音楽によって一体感が生まれた。ライブにおける体験は「カウンターカルチャー」そのものであり、多くのファンは「巡礼」として捉えていた。
CDを2枚以上買うのはAKBのファン以外あまりいません。が、ライブには何度も来ます。自分で交通費をかけて。ツアーにもいっしょについてきます。グッズも出れば買います。白と黒のタオルに赤が出れば、たとえ嫌々でも買ってしまいます。彼らは仲間を呼びます。伝染させます。仲間にもグッズを買わせます。モデルとしては
無料・・・思想→コンテンツ
有料・・・体験→コミュニティ→思想の強化
ある意味では恐ろしいんですが、とにかくこういう仕組みで動いています。
一方で完全に商業ベースとしてフジロックやサマソニなどが大規模になっていきます。が、僕はこれは完全に商業経済だと思っています。これはこれであり。楽しいし。
ただ、共有経済の爆発的な利益(あえて利益としますが)を生み出すには、全然足りないと思います。何かの社会的正義に対する感情を爆発させる精神が必要です。音楽はそういうのと非常に相性がいいようです。ある意味では宗教です。ていうか完全に宗教ですね。
逆にいうと僕らは無宗教と思いながらも、「数学的に正しい」「統計的に正しい」「Mr.Childrenが言ってるから正しい」「スティーブ・ジョブズが言ってるから正しい」「お母さんが言ってるから正しい」と様々な自分にとって説得力のある神を信仰しているんでしょうね。
音楽が共有経済の力をどうやって得てきたか
ここはあくまで経済の話なので経済的にいうと、共有経済の爆発力を得るには、
・多くの人が信じられる社会的正義
・彼らの思いの中心になれる触媒(農業・音楽・その他)
・オープンアクセスなコンテンツ
が必要なんじゃないかなと思います。
さらにテクノロジー、特にSNSによって広い意味でのコミューンの作られ方が変わってきています。次回はその辺りについて書きます。
<ハイブリッド経済(4)>airbnbが「ラグジュアリーな旅」の定義を更新している。
共有経済でブーストする商業経済、airbnb
海外旅行する代わりにairbnbをする
ソファに座ってるだけで世界のコアな情報が聞ける
ラグジュアリーな旅とは何か?が変わってきている。
<ハイブリッド経済(3)>混ぜるな危険。あなたの笑顔がお金に見える。
前回、ラッスンゴレライは商業経済でありながら共有経済の恩恵を得ているという話を書きましたが、本来この二つは混ぜるとめちゃめちゃ危険です。今回はそのあたりの話です。
そもそも商業経済と共有経済の定義ですが、ローレンス・レッシグの定義でいうとシンプルで
商業経済・・・お金をつかう経済
共有経済・・・お金をつかわない経済
ということなので、ここではそれに沿って話を進めます。
経済ってお金じゃないの?
経済の語源は経世済民(世を治めて民を救う)だったりエコノミーの語源はオイコノミア(古代ギリシャ語で家計のやりくり)だったりします。
が、僕の一番好きな定義はこの本にある、
経済=たくさんいる「最適化する個人」の取引全体
というものです。
(この本は漫画でめちゃめちゃわかりやすいです)
この世で一番おもしろいミクロ経済学――誰もが「合理的な人間」になれるかもしれない16講
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最適化っていうのは、自分にとって良い状態をつくるということです。その意味では当然お金を稼いでキャバクラに行くのも経済活動ですし、ただ昼寝するのも取引はしてないですが最適化はしていると言えます。働くよりもダラダラするほうがその人にとって良い状態であれば。
だから物物交換も経済ですし、友達の結婚式のムービーをつくるというのもお金もらわなくても当日盛り上がる、友達が喜ぶという報酬を得るための経済活動と言えます。
だからそれぞれの事例はこんな感じです。
商業経済・・・コンビニでコーラを買う、電車に乗る
共有経済・・・お母さんが子供にご飯をつくってあげる、恋人同士でデートをする
それぞれについてもう少し詳しく見てみましょう。
楽&スピーディ!商業経済はなくてはならない
もしコンビニが物々交換だったらどうでしょう?
コンビニ「うちは今、バレンシアオレンジがほしいからバレンシアオレンジだったらコーラと交換するよ!」
客「バレンシアオレンジ、どこで調達しよう・・・?」
となってしまいます。もしくは
コンビニ「(この人はいつも私の髪型褒めてくれるし好きだなあ)ねえ、コーラいらない?あげるよ!」
客「ありがとう!(チェッ、めんどくせえなあ、コーラもらうのにどんだけ褒めなきゃいけないんだよ)」
というのも共有経済的取引です。いちいちコンビニ寄るたびに褒めなきゃいけないし、違うコンビニでは全く通用しないものです。
もしくは
客「ねえ、コーラちょうだい!」
コンビニ「(こいつは昨日のニュースに出てた殺人犯だ・・・!)誰がお前に渡すもんか!」
というふうになります。商業経済であればあなたがどんな悪人だろうが150円あればそれとコーラを交換してくれるんです。しかもその場で。なんて便利なんでしょう。
と、ここまで取引において共有経済はめんどくさい、と書きましたが、それでも僕たちは日常的に共有経済をかなり行っています。
あえて命名するほどでもない、ありふれた共有経済
共有経済というと「ああ、家をシェアしたりするやつね」となるんですが、もうちょっと待ってください。ここでの話を整理するとなぜいけてるシェアハウスといけてないシェアハウスがあるのかを説明することができます。
上で「お金を使わない経済」と書きましたが、これはめちゃめちゃ日常にありふれている行為です。
今までお母さんが作ってくれたご飯にお金を払ったことがありますか?誕生日プレゼントにお金を払ったことがありますか?デートに付き合ってくれた恋人に時給を渡したことがありますか?いい映画を教えてくれた友達に情報料を払ったことがありますか?(払ってたら、もうその人はプロで商業経済の取引ですね)
僕らは共有経済の中でも生きています。多くの場合この取引は気持ちのやりとりであり、関係性を育むものです。相手が喜んでくれるからやる、というもので、年賀状をくれた人に感謝の念を感じるから感謝料を銀行振込するっていうのが違和感ありまくりなように。
共有経済はとてもパワフルで、時に商業経済では得ることのできない価値を創出したりします。
僕はタイ生命保険のCMはほとんど全部見たことがあるくらい好きですが特にこのCMはわかりやすい例です。
「3袋の鎮痛剤と1袋の野菜スープ」 タイの感動的なCM(日本語字幕) - YouTube
このCMの中では、お人好しなおじさんが盗みを働いた子供をかばいます。30年後、そのおじさんは病気で倒れるのですが、成長した例の子供によって助けられます(このへんはマジで動画を見てみてください。2分57秒なので)。
さて、超ドライに考えると、ものスゴく投資対効果が高い取引です。これは鎮痛剤と野菜スープを高額な医療技術と交換するという物⇄サービス交換によって成り立っています。これを商業経済でやったとしたらどうでしょう?30年で1000円もしないものを250万円にするという偉業です。複利計算だと年利30%を継続して30年間するという離れ業。「年利3%を目標にしましょう!」という投資サイトがある中でもかなりの投資対効果だと言えます。
もしこのおじさんがそれを狙っていたとしたら相当目利きな投資家です。
まあ、それはないにしても共有経済にはこんな規模の経済効果が有りえます。そして何よりこのおじさんと医者の友情の価値がおまけでついてきます。おまけどころか、これはお金で誰も交換してくれないかけがえのない価値です。
フランスの英雄的飛行士サン・テグジュペリは「人間の土地」の中で
何ものも、死んだ僚友のかけがえには絶対になりえない、旧友をつくることは不可能だ。何ものも、あの多くの共通の思い出、ともに生きてきたあのおびただしい困難な時間、あのたびたびの仲違いや仲直りや、心のときめきの宝物の貴さにはおよばない。この種の友情は二度とは得がたいものだ。樫の木を植えて、すぐその葉かげに憩おうとしてもそれは無理だ。
これが人生だ。
と語っています。
30%×30年(複利)効果とかけがえのない友情を得ることができるのが商業経済にできなくて共有経済にできることです。
混ぜるとどうなる?商業と共有
ローレンス・レッシグはこの二つの経済が交じり合おうとしていると言っています。それは主にテクノロジーの進化のおかげなんですが、混ぜることによって危険な面があります。たとえばこういう状況を想像してみてください。
ある夫婦がキスをした。夫はめちゃめちゃな幸福感に包まれた。彼はその感じた価値を彼女に返さなければならないと思った。
夫「はい、一万円!」
妻「は?」
という状況です。
夫「え、ごめん・・・足りなかった?もう二万円でどう?」
妻「Fuck」
という話になります。
妻からすれば「私はなんなの!」とか思います。仮に一万円だったとしたら「一万円で交換できるほかのものがあれば私のキスはいらないのね」となります。吉野家の牛丼30杯と交換可能なわけです。それがあればいらないんです。彼女なんか。そういうメッセージを暗に伝えています。
また、こういう状況もあります。
男A「俺さあ・・なんか疲れてるんだよね。」
男B「疲れてるのか」
男A「ちょっと俺に笑顔をくれよ。癒してくれ。はい、一万円」
男B「おk。(満面の笑み)」
男A「(こいつの笑顔信用できねえな)」
となります。当然ですが、どんなに完璧な笑顔だったとしても、その笑顔の一部分(もしかしたらほとんど)は彼にではなく一万円に対して注いでいるからです。
共有経済にお金を下手に混ぜると危険です。なぜなら関係性とは本来「かけがえのない」ことが前提だからです。「かけがえがある」と伝わった瞬間にその関係性にはヒビが入ります。これはお金が絡まなくても容易に想像がつきます。仮にどちらも大事だったとしても
妻「私と娘、二人とも溺れてたとしたらどっちを助ける?」
夫「(なんてことだ・・・俺にはそんな決断はできない。二人とも俺の命より大切なんだ。しかし、本当にどちらかを選ばなければならないとしたら・・・)娘かな」
妻「Fuck」
まあ、この妻も妻なんですが、関係性を比較しちゃいけないんです。二つとも大切なものだから。でもどちらかを取る、となったときに関係性をないがしろにされたと感じるんです。
※ちなみに中国ではこの質問は鉄板な質問だそうです。
この非常に危険な混ぜ方をすでにしている人たちがいます。わかりやすいのはネットワークビジネス。「友達と思ってたのに!私のことをお金だと思ってたのね。」というのがよくあるオチですが、まさに上記の構造。それを「夢」というわかるようなわからんようなドライバーで無理やり推進させる。(その夢だって「ベンツを買えば幸せ」とかいう思い込まされた夢だろうに・・)
ここで重要なのは「ネットワークビジネスだけが危険」というわけではないということです。「下手な商業経済と共有経済の混ぜ方」が危険だからです。変な宗教もブラック企業も友達との大人な付き合いもこれが原因なことが多い。
アリなハイブリッド経済とは?
では商業経済と共有経済は融合させるのは難しいことでしょうか?ある意味ではそう思います。ただ、うまくいっている事例もあります。
あ、ちなみに上で書いていたいけてるシェアハウスといけてないシェアハウスの違いは
いけてるシェアハウス・・・共有経済の恩恵を含んだ商業経済(住んでる人が非常に気のあう人で、良い関係性を持てる環境が整っていて、住むこと以上の価値を感じる)
いけてないシェアハウス・・・商業経済(でかいリビングがあれば個室小さくても満足だろ?なんて投資対効果高い清貧なやつら!的な考え。大きいシェアハウスであればいいと思っているが、実際は大きくなるほど中でコミュニケーションをとることはできづらくなる)
だと思います。ほんとね、シェアハウスじゃなくて集合住宅っていえよ!って思う。
次回はその事例について書きたいと思います。
追記(2015/4/1)
※タイトルは稀代の芸術家・弓指寛治氏の個展より引用
<ハイブリッド経済(2)>共有経済に巻き込まれるラッスンゴレライ
コンテンツをパクるのは、いつ何時も許せない?
ラッスンゴレライは、パクってほしい?ほしくない?
パクられて得する著作物
from: http://creativecommons.jp/licenses/
著作権以外にも商業経済と共有経済の融合はあるか?
<ハイブリッド経済(1)>贈与経済の違和感
「シェア」みたいなことを言っているといろんな人に「ああ、里山資本主義ですね」とか「贈与経済ですね」とか色々言われます。その度に「それってなんだろう?」と調べてみるんですが、やっぱりちょっと違和感があるんですよね。
贈与経済は持続可能か?
贈与経済をさかのぼってみると、インディアン(ネイティブアメリカンですが、実際は彼らはネイティブアメリカンっていう言葉のほうを嫌うのでインディアンでいきます)のハイダ族、ニューホーク族などの習慣のポトラッチに辿りつきます。
僕は大学がインディアンの街オクラホマだったのでこの時点で結構興味がわいてきました。ちなみに最近よく言うポットラックパーティ(持ち寄りパーティ)の語源はここから来ています。
ポトラッチは誰かが生まれた時、成人した時、結婚した時や亡くなった時などに干物やカヌー、時には奴隷などをプレゼントしたりしていました。
この世界ではプレゼントすればするほど偉いという価値観なので次第にみんなエスカレートしていきます。等価交換がいきすぎて、交換してもらったものを壊したら、相手も壊すというよくわからない事態になります。それを野蛮だと感じた政府の役人はポトラッチを取り締まるようになりました。
最近ものをシェアするという話をするときに贈与経済の話が違和感があるのはその源泉が名誉欲とか貢献感だからです。
僕らは名誉欲や貢献感のためにシェアをしてたっけ?
sharebase.InCにはたくさんのものが置いてあります。これはほとんどシェアされたものだったりもらいものです。エスプレッソマシン、トースター、ホワイトボード、音響機材、冷蔵庫、電球などなど。食器も本も全部誰かのものです。
これがもし贈与経済だったとしたら、彼らは「ありがとう、こんなのを手放すなんてすごいね!」とか「ありがとう、あなたのおかげで今日も明るい室内を楽しませていただいてます!」みたいなものを求めているっていうことになります。そして、社会的地位をあげるためにいかに自分がその場に貢献しているかを知らしめたくなるはずです。
ただ、現状そんな話は聞いた事がありません。
たとえばホワイトボード。これはある人が自分のイベント用に「持ってきてもいい?」と僕に聞いたので「いいですよ」と答えて持ってきました。イベントが終わって帰るときに「これさ、持って帰るのもあれだから、置いてってもいい?」と聞いてきたので「もちろん!僕らも使っていいですか」と聞きました。
そうすると「全然いいよ!減るもんじゃないし」
と答え、いままさにずっとそのホワイトボードが鎮座しています。めっちゃ活用しています。ありがとう、トーマスさん(日本人)。
これは搾取か?だとすると、どっちの搾取か?
で、ある見方をすれば「sharebase.InCが無償で個人からホワイトボードを提供してもらった」となってうがった見方をすれば搾取していることになります。本来だったらレンタル料金を払わないといけないですもんね。でも払ってない。搾取だ。
一方で彼のほうからすると、まあ実際はそこまで気にしてないというのが本当だと思いますが、本来保管するための倉庫代、場所代みたいなものが発生してるわけです。それを無料で保管してくれてるのがsharebase.InCだったりします。
お互い、名誉や貢献感のためにではなく相互のメリットによってこの「ホワイトボードを無償でsharebase.InCに置く」ということが起きています。これって贈与経済じゃないですよね。
贈与経済はGive and Give。でもこの経済はお互いTake。名誉も貢献もなくても成り立つ取引です。この経済をなんと言ったらいいんでしょうね。物物交換の派生みたいなものでしょうか。
僕のこういった違和感をほどいてくれたのが、これです。ドンピシャかというとまだ少しなんですが、かなり近い。
著者ローレンス・レッシグはいわゆるお金を使う経済(商業経済)とお金を使わない経済(共有経済)があって、それぞれ役割がある。そしてそのハイブリッドが生まれつつあるというのを事例を含めて解説してくれています。
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次回はこの辺について書きたいと思います。
コモンズの悲劇と石巻の漁師とコワーキングスペース
コミュニティが衰退するパターン
コミュニティがうまくいかなくなるのは大体同じパターンです。
・特定の人に負担がいきまくる
・特定の人が場所やものをつかいすぎる
・誰もが問題だと思っていることが長い間放置される
・ルールが徹底されない
・目的を共有できない人、場を荒らす人が増える
心当たりあります?僕はめっちゃあります(笑) これってなんなの?どうにかならないの?とすっごい悩んでいたので今日はその話です。
僕のコワーキングスペースは共同運営という形をとっていますが、最初特に役割分担をしていませんでした。結局は見るに見かねた人が掃除をしたり、ゴミを捨てたり、イベントを色々開催したり。でもそれも1−2ヶ月は続くんですが長続きはしない。
よく使うメンツというのは決まってくるので、自然と彼らがよくいる場所というのも決まってきます。小規模の時は問題ありませんが、あまりにイベントが多くなってくると「行っても使えない」ということも増えてきます。
今はよっぽどないですが、最初の頃はネットワークビジネス的な人も混ざってきました。ネットワークに限らずこの場を「ひとが集まる場所=リスト」と見るような人が混ざるともう、荒れるしかありません(笑)
それはコモンズ(共有地)の悲劇と呼ばれそこらじゅうで起こっている
この辺りは「コモンズ(共有地)の悲劇」という言葉でまとめることができます。
アメリカの生物学者、ギャレット・ハーディンがサイエンスに寄稿した論文が元です。
牛を放牧している土地で牧草の取り合いになって、それぞれが牛を増やしまくり、結局牧草がなくなるっていう話です。結果として全ての関係者が損する。
石巻の漁業のコモンズの悲劇
昔石巻の魚の卸の若大将に話を聞いた時も同じようなことを聞きました。その時は震災から半年も経っていない時で、がれきの山もそこらじゅうにありました。「畳上げたら友達の死体が入ってた、なんて日常茶飯事だったよ」「石巻の漁港全てがダメージを受けて、船はどっかいった」という悲惨な現状を話してくれていましたが顔のどこかに明るい印象を受けていたので、めちゃめちゃ失礼だとは思いつつ「大変不謹慎なんですが、どこかこの現状を楽しんでいたりしますか?」と聞きました。すると
「まあ、それはあるかもね。だってさ、そうじゃなくても石巻の漁業は5年以内に立ち行かなくなってしまっていたはずなんだ。漁師ってハンターでしょ?魚がいたら獲るよね?みんなが獲りすぎると、魚は減る。すると稚魚しかいなくなるんだ。稚魚は値がつかない。めっちゃ安いんだよ。でもさ、他に獲る魚がいなかったらどうする?獲るでしょ。だから、もう、魚いなくなる予定だったんだ。」
「そういう現状を変えたくても漁協は全く動いてくれなかった。たとえば一番儲かるのはカキの養殖。実際にやらなきゃいけないのは、極論すると、朝ぶらっと見に行って「お、ちゃんと育ってるな」と確認したらあとはパチンコしにいくんだ。でも漁業全体はうまくいってないから国からお金が降ってくる。補助金という形で。そういうのは何に使われているか?そういうおっちゃんたちの家のテレビが新しくなったり車が新しくなったりするんだ。でね、このあたりの既得権益は特定の枠が決まっている。新しい人には手に入らない。当たり前だけど手放したくないんだ。管理漁業してるっていうけどさ、実際いわしの漁獲量の枠(これ以上獲ってはいけないという上限)は実際に存在するいわしより多いんだよ?(笑)」
「だから、俺たちの声はずっと届かなかった。見ないフリをしてきたんだ。でも、今のこれがあったでしょ。全部なくなっちゃったんだ。だから選択肢ができた。"同じルールをもう一度つくるか、全く新しいものにするか"。俺たちの発言の余地が生まれたんだよ。そういう意味では、俺は楽しんでいるのかもしれないね。友達が死んだのは本当に辛い。俺も死のうと思ったよ。でも生きてるんだから何かしないとね。」
まさにここで起きていたのはコモンズの悲劇。解決策は?
ここまで深刻じゃないにしても、オープンアクセスの共有地において同じことが起きます。どうやったらそれを防ぐことができるのか?とずっと考えていましたが、以下の三つが大事なようです。
1. 場所が続くことのためには私利を捨てれるリーダーが現れる(めっちゃむずい)
2. 過去にコモンズの悲劇でひどい目にあったメンバーの割合が増える(めっちゃむずい)
3. ローカルコモンズにする(まだやれるかも・・)
というわけで次回はこの三つについてもう少し書きます。