<プロジェクタビリティ(3)>無限鍋とソシャゲーに見る、質の高い出会い。
何も生まれない場所
その時間がクオリティ・タイムかどうか
クオリティ・タイム
ジョギングやウォーキングなど。テレビを見る・音楽を聞くなどは適さない。
②お互いに価値があると認めているもの
お互いの上質世界に入っているものであることが重要。
③相手に意識が向くもの
互いを意識しないものは、クオリティタイムにならない。
④繰り返し行えるもの
一ヶ月に一度より一週間に一度。理想は毎日繰り返し行えるようなものがよい。
⑤限られた時間で行えるもの
継続性が大切なので、一回の時間は短くていい。
⑥話題は安全なもの(対立が生まれないもの)
活動中に会話をする場合には、対立が生まれないようなものにする。
⑦批判しない
相手を馬鹿にしたり非難したりしない。
そんなに努力必要ない。お互いに意識向けてない。価値があるかどうかは見てる映画による。男女で行くとどっちかに合わせるっていうことが多いですが。w
逆にクオリティ・タイムな時間ってなんだろう?と思ってsharebase.InCでも実験していました。たとえば、鍋なんかはよかったです。
みんなが具材を持ち寄る限り、無限に続ける無限鍋。これのいいところは、初めての人でも入りやすいことです。僕もそうなんですが、初めての時って気後れしちゃうんですよね。輪にはいってけるかなあとか。でも、具材を持っていれば、それが武器になる。肉もってきたらヒーローです。10時くらいにうどんとかもってきたらもう「神・・・!」ってなります。あと、やることない時って気まずいじゃないですか。鍋があれば、なんとなくアクをとってみたり、片付けしてみたり、やることいろいろあるから紛れるんですよね。
当時はそんなに意識していませんでしたが、クオリティ・タイムには合致しているかなあと思います。
異業種交流会、ってなると相対しちゃうんですが、この場合相対するのは鍋。みんなで同じものに向かいあうので、お互いを警戒することはないですし、競争することもありません。合コンも、男と女に分かれて「さあ、みんなで出会いましょう!」みたいな設定をつくっちゃうから変な競争心が出てきてつまらない場所になっちゃう。対立が生まれれば、クオリティは低くなっちゃいます。
時空を超えたクオリティタイム・ソシャゲー。
うちの母はGREEにはまっています。僕はほとんどソシャゲーはやらないんですが、彼女はよく同じ仲間で宝探しに行っていたようです。
で、2011年の3月11日ですが、例の地震で彼女の宝探し仲間も被害を受けていました。福島の人だったんですが、「ごめん、避難所で電池もうすぐなくなっちゃうからもうプレーできないかも・・・」という仲間に対して、母親は僕に電池を水を送るように命じました。「さすがに避難でゲームどころじゃないだろ・・・」と思いながらダンボールにいろいろ詰めていたのを覚えています。
また、うちの母は車いすなのですが、仲間の一人が岡山で車いすをつくっているらしく「今度はそこに頼もうか」と言っていました。
これって結構すごい話です。時間も空間も共有したことのない人から物資が送られ、またそういう人から仕事の発注が、信頼できるからとくるわけです。ただ宝探ししてただけなのに。
課金とかガチャとか言ってますが、僕はソシャゲーの一番パワフルで恐ろしいところはこちらだと思います。つまり、時空を超えて信頼関係の第一ステップを構築できる。ソシャゲーが到達できる最も大きなマーケットはこの信頼で結ばれたコミュニティにおけるP2PのEコマースだと思います。
おー、この辺はめっちゃ語りたいんですが、本筋とずれてきてしまったので別の機会で。
とにかく、クオリティ・タイムっていうのが質の良い出会いをつくっているよね、ということです。そしてその信頼関係のベースがなければプロジェクトが生まれる土壌がそもそもないと思います。
鍋を食べながら、またゲームでもしながら、なんでもない会話から「いや〜、やっぱりスターウォー○のあのシーン再現したいよなあ!」と話が出た時に「おー、そういえば昨日も同じようなこと言ってるやつがいたな。センサーとかに詳しいやつなんだけど」「マジで!紹介してよ!!」みたいな流れはsharebase.InCでしょっちゅう起きています。
肩書きも、対立も何も関係なくイチ人間としてその場を楽しめて、純粋にお互いのことに興味が持てる時間。
鍋じゃなくてもいいですし、ゲームじゃなくてもいいです。とにかく、上のクオリティ・タイムを設けるのに使えそうな、人と人の間に挟める媒体があると、出会いの質は高くなるのではないでしょうか。
<プロジェクタビリティ(2)>終わりがある、という意味では恋と一緒ですね。
前回は場の評価に「プロジェクタビリティ=プロジェクトの生れやすさ、その土壌の質」を使っていると書きました。
しがらみが多く、結果プロジェクタビリティの低い会社に替わる場所が欲しいなというのが理由です。で、結局土壌の質ってなんのことをいってるの?となるのでもうちょっと分解したいと思います。
プロジェクタビリティ=出会いの質×出口の質
で、出会いの質と出口の質について書こうと思ったんですが、そもそもプロジェクトってなんなのか、なぜプロジェクトにこだわるのかをはっきりしておかないといけないですね。
プロジェクトとは何か
Wikipediaによると
プロジェクト(英: project)は、何らかの目標を達成するための計画を指す。どちらかと言えば、小さな目標の達成のためのものではなくて、大きな目標を集団で実行するものを指すことが多い。その計画の実現のためのタスク(仕事)の実行までを含めて指すこともある。
とのことです。目標を共有してるんですね。
語源としては、pro + ject =前方(未来)に向かって投げかけること、という構造になっている[1]。
前方に投げかけるんですね。ボールに関するプロジェクトはこんな感じでしょうか。
また、プロジェクトマネジメント協会によると
プロジェクトとは、独自の製品、サービス、所産を創造するために実施される有期性の業務である。」
終わりがあるんですね。ずっと続くというものではないようです。恋と一緒ですね。
振られた後の男女の違い
終わりのある組織の良さ
プロジェクトベースで物事を進める、というのはこの「終わりがある」というのが独特な感じがします。ある経営者にいろいろ相談していた時に、「会社の目的は"永続"だ」と言われました。その時々の目的に応じて集まって目的が終わったら解散、というような人の集まり方にそもそも会社は適していないのかもしれないですね。
なぜ終わりのあるプロジェクトにこだわっているのか?というととりあえず頭の中にある仮説を試してみて、その結果からいろいろ学びたいからです。なぜ仮説を試してみたいのかといえば、正解がわからないからです。なぜ以前より正解がわからなくなってきたかといえば、環境がめちゃめちゃなスピードで変化しているからです。
永続が前提の組織で始めるなら、永続できる保証が始める前に必要です。そんなの無理です。ただ、保証じゃないにしても、「これならやってけそう」という雰囲気の事業は見つかるかもしれません。そしてそれは実行されたものの中からしか判断できないです。終わる前提の組織(=プロジェクト)の役割はそこだと思います。
あと、その時しかないから情熱を燃やせるというのもあります。これも恋と一緒。1億2000年も愛するのは相当難しいと思います。いや、でも彼らも転生の都度死んでるから短いプロジェクトをたくさんやってることになるのか・・。
終わりと始まりを繰り返す
人生は出会いと別れの繰り返しだと、かのソフィアも言っています。
プロジェクトが終わりを前提にしている以上、「終わる」というのと「始まる」というのを延々と繰り返していくことになります。だからこの二つの質が大事なんだと思います。
次回はその二つ、「出会いの質」と「出口の質」について書きたいと思います。
<プロジェクタビリティ(1)>人が多ければいいっていうわけじゃない。
僕をずっと悩ませてきたことはコワーキングスペースのようなリアルな場の意味合いってなんなんだろうということです。
すっごくざっくり言うと、コワーキングスペースってまずもってワーキングスペース、働く場所なんですよね。それにコミュニティの機能がついたもの。Co-EdoさんがCW理論というすごく良い表現をされていましたが、そのバランスをとらないといけない。
コワーキングスペース茅場町 Co-Edo: コワーキングスペース運営者が意識すると良いかもしれないCW理論について
で、まあCW型になりましょうっていうことだと思うんですが、何のためにCW型なんか目指すんでしょう?そこに仲良くできるワーカーがたくさんいて、楽しいとは思うんですが、それがなんなんでしょう?というかそもそも僕がやりたいのはコワーキングなんだっけ?という疑問がふつふつと湧いてきました。
僕がやりたいのはコワーキングなんだっけ?
僕がやりたかったことは、会社で許されないことを会社じゃない場所でする、ということです。会社で許されないことっていうのは
「それって生産性あるの?」とか
「それってマーケットあるの?」
とかいう正論に答えられないことに労働力を割くことです。当たり前ですよね。僕が社長ならそうなります。
「生産性?わかんねっす。」と言い切れる場所。NGが許される場所。マーケットがわからない中で動いて、失敗できる場所。それを笑いあえる場所。共有して学べる場所。会社のリソースではできないことができる場所。
それは、未来が不確実な時に頼りになるのは、新しいことをする経験値だと思うからです。創造の経験値です。だからこれが実現できないとそもそも立ち上げた意味がないです。そういう意味では研究開発の部門にいけないので自分でそういう場所をつくるしかなかったというだけです。
2012年:sharebase.InC工事中。奥に謎のゲーム台があるという。
The More the Betterじゃない世界
経営のことを考えると普通に会員を集めればいいんです。勧誘して。ただ、たくさん集まったら嬉しいかというのはやっぱり違うんです。
僕が勤めていたリクルートという会社は、大きく二つに分かれます。人材系と販促系(これHR以外の人が見たらキレそうだな・・・)。この二つで大きく思想が違います。
※これ、完全にわかりやすく言うだけなので、他意はないのをわかってくださいね!
たとえば誰かが引っ越しをしたとします。仲介するカウント1ですね。彼は実は世界の貧困を救うための事業をやっています。それでもカウントは1です。仮にヤクザだったとしたら?それでもカウント1です。
たとえば誰かが結婚したとします。仲介するカウント1ですね。彼らが聖人だろうが悪人だろうが購買してくれればそれがカウント1です。
この世界ではthe More the Better、つまり多ければ多いにこしたことはない世界です。
人材だとちょっと違います。たとえ面接に100人が来たとしても、全員ヤクザだったらちょっと勘弁してほしいわけです。求人広告の担当者は「100人も来たんですね!効果絶大ですね!」と言いたいところですが、実際は「ふざけるな!」という感じです。
たとえ1人だとしても、超特A級のプログラマだったらものすごく嬉しいです。多くの人と面接する手間も省けるし。
人材と販促で大きく違うのは「誰が」が影響するかどうかです。人材では「誰が」がかなり大きく影響します。
同じように、コワーキングスペースというか僕がやりたい場所にも「誰が」が大きく影響します。そして「誰が」は目的によります。CW型のスペースになって、結局何がしたいんでしょうか?
じゃあどんな人が集まって、どんなことが起きることがいいことなのか?
という話をずっといろいろな人と話していた時に、浜松のアーティストの鈴木一朗太さんという方が使っていた言葉がしっくりきました。それがプロジェクタビリティです。
プロジェクタビリティとはProject + abilityで、鈴木さんの造語らしいですが、
「プロジェクトの発生しやすさ、その土壌の質」
のことを言っています。
つまり、多くの人が集まったとしても、そこで新しいプロジェクトが生まれなければプロジェクタビリティは低い、ということです。たくさんの人が集まってワークしていても、仲良く手も、プロジェクトが生まれない場所は評価が低いということです。
逆に、当然ですが少数の人だけだったとしても、今までにない新しいプロジェクトが生まれればプロジェクタビリティは高くなります。この指標は僕の中では一番しっくりきています。
僕の違和感はずっとここだったんです。
好きな合コンと大っ嫌いな合コンがあります。パーティも。飲みにいくのも特に好きじゃありません。でも、めちゃめちゃいい飲み会だったな!と思う時もあります。
よく考えれば、どんな場所だったとしてもプロジェクタビリティが高い場所は好きだった、というだけでした。
ではプロジェクタビリティの正体、それに貢献しているものはなんでしょう?これは鈴木さんとも話していて結論が出ていませんが、僕なりの仮説とその詳細をここでアップしていきたいと思います。
2015年:sharebase.InC、奥ではLA名古屋合同のバーチャルリアリティプロジェクト、手前では納屋橋の再開発の話など。プロジェクタビリティはちょっとは出てきたんじゃないでしょうか。
予告:プロジェクタビリティの中身
仮説は
プロジェクタビリティ=出会いの質 × 出口の質
です。よくわかんないですよね。次回以降それぞれについてもっと詳しく書きます。
ついでに言うと、人はすくないほうがいい的なことを言ってるように見えたらアレですが、結局人を集めようと思うとプロジェクタビリティが必要になってくるんです。その辺も含めて。
ゴーストが囁くので、好奇心で飯が食える世界をつくる
統合されてしまった僕たちが個を取り戻すことはあるか
好奇心で飯が食える世界
<ハイブリッド経済(9)>ものづくりでハイブリッド経済をつくろうとした結果。
僕が意図的につくろうとしたハイブリッド経済の実験の結果です。
混ぜようとしたのはこの二つです。
商業経済・・・イベントの制作
共有経済・・・オープンソースなものづくり(メイカームーブメント)
※それぞれの経済の説明についてはこちら
で、いきなりの結論としては、
・「好きだからやる」と「責任を持つ」というのを分離する
・「責任」に課金する
・「好きだからやる」にも色々あるし、それぞれに関わり方とタイミングを設定する
というのが大事だと思います。
Power of non-professionalは本当か
メイカームーブメントに限らずですが、ものごとの基本的な流れはクローズド→オープン、会社→個人に向かっていると思います。それってどんな価値があるんでしょう?WIREDの元編集長クリス・アンダーソンは書籍「Makers」に関するインタビューの中でこう語っています。
「本書のエッセンスをひとことで言うなら“Power of non-professional”だ。アマチュアのパワーこそが、『ロングテール』『フリー』『MAKERS』という3冊に通底するエッセンスなんだ」。アマチュアはその対象を愛しているからこそそれをやる。プロはお金のためにやる。「好きだから、というのはお金のためにやるよりもパワフルで、だからそれが時としてプロを超えることがある」。
- 作者: クリス・アンダーソン,関美和
- 出版社/メーカー: NHK出版
- 発売日: 2012/10/23
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ただ、実際にはものをつくる人たちというのは個人でつくることのほうが多く、コラボレーションをするというのはかなり意図的にやらないと難しい、もしくは、意図的すぎて特に面白くない、みんなやらされになってしまうということもありました。ものづくりがオープンになってきてるっていうけど、本当にみんなコラボしたいとか思ってるんだっけ?別に個人でよくない?と悩むことも多かったです。
多様な人たちがそれぞれの文脈で関われるテーマ、Starlight Run
そう考えていた時に流行発信(名古屋の地元の出版社)の桑原さんからStarlight Runの話を持ちかけられました。(Starlight Runは夜に行う光と音のランニングイベントです)
実際の映像はこちら
当時は直感的に「これだ!」と思いました。夜×光×音×ランニングというテーマなら照明、音響に加えてセンサーを使ったり造形してみたりSNSで連携してみたり、WEBで外部とつないでみたり、色んなものづくりの人たちが協力する必要があります。また、ランナー、ダンサーにとって良いことは何か?も聞く必要があります。そうやって多様な人がひとつの世界観を、それぞれの持ち場で一緒につくっていくということが、このテーマなら可能だなと思いました。
制作の過程についてはまた別途まとめます。ここではハイブリッド経済として学んだことについて。
お金をもらうことは、すべてのクリエイターにとって良いことか?
デザインの世界でも、制作物にお金が払われないという事例が多く、原価の割り出しづらいものに関してはお金がもらいづらいから難しいよね、という話をよく聞きます。ということはすべてにおいてお金は払われるほうがクリエイターにとって嬉しいことなんでしょうか?
完全に程度によります。そしてそれはその人が果たして「商業経済としてものづくりをしたい」のか「共有経済としてものづくりをしたい」のかによって大きく変わります。
共有経済に責任は発生しづらい。
商業経済としてのものづくりは、当然ですが有料です。金額によって価値が評価されます。同時に責任が発生します。期日までに期待されたクオリティのものが納品されることが求められます。状況によっては契約違反で責められる場合もあります。
すべてのものづくりは商業経済でしょうか?たとえばMaker Faire Tokyoなどのイベントに出展する場合はどうでしょうか。これは共有経済です。お金をもらっていないので。
仮に間に合わなかった場合、間に合ったとしてもどうしようもない未完成の作品だった場合、クオリティが著しく低い作品だった場合、会場の意図とは違う作品だった場合。彼らは責められるでしょうか?Twitterでは叩かれるかもしれませんが、主催者から損害賠償は来るでしょうか?
主催者のほうの立場に立ってみると
(主催者)「いや、当日来ないとかイマイチでしょ!!」
と思うものの、仮にそれを理由に損害賠償を求めたとしても
(出展者)「そんな話聞いてないし、そもそも出展料払ってるし。こっちの責任でやってるんだからガタガタ言われても困るんですよねえ!」
と言い返されたらそれで終わりなのは目に見えています。
お金をもらわずにやるものづくり、こういった出展や発表の場では責任はあくまで自己責任です。誰かから何かを請求されることはあまりありません。そういう自由さがあります。また、主催者側の意図を汲む必要もありません。それも自由です。
お金をもらうということはこういう自由を手放すということです。主催者は「お金払ってるんだから、こちらの意図汲んでもらわないとこまるんですよ。納期に間に合わない?ありえない。納品できない?ありえない!!」と言う権利を渡すということです。
自分がどう関わりたいのかによって商業経済と共有経済を使い分けないといけません。そして、大事なのは相手にどう関わってもらおうとしているのか、それは合意の上なのかを事前に確認しないといけません。
Starlight Runでは、つくる側は共有経済(原価はもらうが人件費は出ない)という形で行いました。そして何が起こったかというと、当日ありえない土砂降りで納品できないものが数点ありました。雨対策も不十分だったため、コースに暗い部分が増えてしまいました。
主催者側からすると「納品できないものにお金は払えない!」と言えそうなところですが、「人件費ももらってないのにそれはないでしょ!」と言われるのが明白なため、大きなもめごとになりませんでした。
つくる側としては良かったかもしれません。しかし主催者からするとこれではイベントは成り立ちません。好きで、クオリティの高いものを作ってくれたとしても、それが当日ある保証はない、というのはビジネスをやる上でかなり不安です。
「好きだからやる」と「責任を持つ」というのを分離する
僕のハイブリッド経済の目的はやはりクリス・アンダーソンのPower of Nonprofessionalをちゃんと商業的に結びつけることです。彼らの好きなものづくりをサポートし、発信できる機会をつくり、ちゃんとそれをマネタイズすることです。同時にクライアントに安心して任せられる、新しいコンテンツを提供してくれる存在だと信頼してもらうことです。
なのでこう分離しました。
商業経済と共有経済の整合性を保つ人を設け、それによって両者に価値を提供しようとしています。というかこれは完全にRed HatなどのLinuxディストリビューターのモデルの丸パクリですが。笑
でも、最悪この中間にいる人がどうにかする、足りないリソースは引っ張ってくる、ニーズに合致するものと作り手が作りたいものを整合させる、など頑張ることが大事だなと思います。
「責任」に課金する
お金をちゃんともらうことは大事です。実際、安い仕事のほうが気楽です。安ければ最後にはこう言えるんです。「そこまで求められるなら、この金額では割りが合わないですよ!」と。
ただ、本当にクライアントのためを思うなら、必ず必要な責任が全うされることが大事だと思います。「これだけ払ってこれかよ!」と言われないように頑張らざるを得ないです。松下幸之助翁は「値付けは経営だ。」と言いましたが、本当にその通りで、値段は期待される責任を左右し、企業の格を左右し、会社そのものを左右すると思います。
適正な値段をつけるというのはハイブリッド経済でも当然必要なことです。
「好きだからやる」にも色々あるし、それぞれに関わり方とタイミングを設定する
「好きだから」というのは、何が好きなのか人によって違います。作業自体が好きなのか、自分の想像通りのものができるのが好きなのか、設計するまでの思考が好きなのか、あるいは友達と話すきっかけ、媒体としてものづくりが好きな場合があります。もちろん貢献感を楽しむ人もいます。
さて、作業自体が好きな人や、友達づくりの媒体としてものづくりを見ている人は設計の段階から絡むとやることがありません。やることがないということは暇だということです。暇なプロジェクトに魅力を感じますか?できるだけ短い期間、常にある程度忙しいのがベストだと思います。完全燃焼した感じがします。
だから巻き込むタイミングが大事です。設計段階で100人も200人も必要ありません。そんなにいたら相当なマネジメント力がないと設計なんてできません。
少数で設計し、徐々に強みや志向を判断材料にしながら巻き込んでいくのが必要です。ということは、事前に誰が何をしたい人なのか知っておけるとベストです。
それは面談という形式をとると本音も何も言えないので一緒にみんなでご飯を食べたりするくらいがちょうどいいと思います。僕のやっているsharebase.InCはキッチンもありますし、そういう意味ではちょうどいいです。
誰が何を好きなのか、というのは共有経済を回す上で非常に大切な情報だと思います。
やっぱりハイブリッド経済って難しい!
現状、まだまだ改善する必要があることだらけです。お金と人の関係性というかなり厄介で相入れづらいものを扱うのでデリケートな問題です。でも、やっぱりPower of non-professionalは信じていたいなと思っています。特に、airbnbのように仕組みとしてハイブリッドを提供できているところは本当にすごいと思います。やっぱり商業経済を共有経済で支えるのはかなりパワフルです。やってて思います。今後こういうのが増えてくるんだろうなと強く思います。
一旦ハイブリッド経済シリーズはこれで終わりです。またこれ以降事例が増えてくればここで紹介していきます!!
<ハイブリッド経済(8)>盗んだ野菜で八百屋を開く。というのが成立するとき。
あるマンションで、みんながシェア菜園で野菜を育ててるとします。ここの野菜は無料でもらえます。
そこからトマトやきゅうりやいろんな野菜を持って行って、八百屋を始めた男がいるとします。
お客さんは当然普通に美味しそうな野菜なので、お金を払います。
直感的にこの話に危うさを感じませんか?こいつただの泥棒じゃん!とか、このお客さん何も知らずにのんきだなとか。シェア菜園でもらえばいいのに。とか。
でも、これと似た状況で、みんなが何が起きているか知っている状態で成り立っている経済があります。そしてそれが、ハイブリッド経済の出口のわかりやすいひとつだなと思いますし、ゆえに、「お金とは何か」というのをより正確に捉えないといけないなと思います。
無料で手に入れたものを有料で売る。Linuxを囲む経済
コンピュータ苦手な人、戻るボタンを押さないでください。怖くありません。コンピュータは友達です。
Linuxとは、OSです。Windowsみたいなものです。ひとつ違うのは、無料だっていうことです。だから世界中でLinuxが使われています。MacOSも、(BSD UNIXベースだそうですw)AndroidもベースはLinuxです。テレビ、カーナビ、医療機器、携帯電話もいろんなところにLinuxが使われています。Facebookも、Googleも、Amazonも、TwitterもLinuxを使っています。
さらに世界のスパコンTOP500のうち485台がLinuxを使っています。(2014年6月時点)
このLinuxはどこの会社が作っているのでしょう?実は、会社はありません(財団はありますが)。全てオープンソース、つまり世界中の法人個人関係なく様々な開発者が関わって日々作っています。無報酬で。だから無料です。そして、かなり多くのシェアを持っています。
なぜ無報酬で開発をしているのか、というのはものすごく深淵な疑問なのですが、ここでは本筋ではないのでヒントになるリンクを貼るにとどめます。
The Cathedral and the Bazaar: Japanese
とにかく、別に親切でやってたり社会貢献でやってたりしてるわけじゃないです。自分の夕飯をつくるのが社会貢献でないように。必要だからやってるだけです。
さて、そういうわけでLinuxは無料です。しかもいろんな人がいろんなバージョンをつくっているのでカスタマイズもし放題です。ところが!なんとその無料の材料を組み合わせるだけでお金を儲けている人たちがいます。Red Hat始め、ディストリビューターという会社たちです。上のマンションの野菜状態ですね。
当然のことながら「俺たちがコードを書いて、それを有料で売るとはどういうことだ!」と文句が相当出たようです。よく考えたらすごい話ですよね。でも、だとしたらそもそも商売として成り立たないはずです。だって無料で手に入るものを有料で買う人がどこにいるんでしょう?
しかし、あえてお金を払う人たちがいました。普通の会社です。法人です。彼らの背景を理解すればそれはそれで理解できる理由でお金を払っています。
逆にお金を払わなかったらどうなる?
無料でOSを手に入れて全社員1000人くらいで使っていたとしましょう。めっちゃ節約できましたね。しかしある日バグが見つかってシステムがダウンしてしまいました。これ、誰の責任でしょう?誰を責めますか?
まず社内SEを責めます。「どうなってるんだ!」と。社内SEは業者に責任を求めます。が、責任を求める業者はいません。しかし誰かを見つけないといけないので何百万と存在するLinux開発者の中から気の弱そうなやつを選び「お前、どうしてくれるんだ!」と責めてみます。おそらくその開発者は
「は?知らねえよ。ていうかなんで金をもらってるわけでもないのにそんなこと言われなきゃいけないんだ?」
「そしてその文句は誰に向かって言ってるんだ?俺がすべての責任があると、本気で思ってるのか?」
お金を払ってないということはシステムの責任を全部自分で持たないといけない、ということだったのです。ちゃんちゃん。
そして上記のディストリビューターはまさに「責任を負うこと」「万が一の時に責められること」を価値として存在しています。法人としては「頑張ったけど止まりました」「でも僕らも趣味ですから、そこまで時間割けません。」とか言われたら、事業継続できないですよね。保証してくれる何かが必要なんです。彼ら法人にとってはそれがディストリビューターだったわけです。
無料の野菜を有料で買う
シェア菜園は誰がどんな品質のものをつくっているか正直わかりません。栄養状態もわからない。勝手にもっていってもいいですが、食べてお腹壊しても自己責任です。
しかし、この男、無料の野菜で八百屋をはじめた男は責任をもつことになります。お金をもらってしまったから。責める理由をつくってしまいました。「お金払ってるんだから、どうにかしてよ!」って簡単に言えますよね。
逆に、もしシェア菜園をやっている人が「これでお腹壊したんだけど!」って言われたら
「じゃあ、食うなよ・・・てかこっちは好きにやってるだけなんだからそんな文句言われても・・・」と思ってしまいます。
お金をもらうってそういうことなんだと思います。価格を下げるというのはとれる責任を低くするっていうことだと思います。上げるっていうことはその逆。
僕らは何にお金を払っているのか?
僕は人はモノの価値に対してお金を払っていると思っていました。でも、だとしたら、Linuxの開発者に対してお金が払われているはずです。少なくとも請求されたら「これは払わないとな」と直感的に思うはずです。でも、そうじゃない。カフェで食い逃げするのが直感的にまずいと思うのにも関わらず。だからモノの価値に払っているというのはちょっと違う。
かなり大きな割合として「お金を渡す=責任=どうにかしてくれる」というのを期待しているんじゃないでしょうか。そして、もしそうだとしたら、そこにおいてハイブリッド経済が成立するんじゃないかなと思います。とりあえずLinuxにおいては成立していますね。
Linuxのディストリビューターにおいては
商業経済・・・Linuxのパッケージング、保証
共有経済・・・Linuxの開発(自分のためにやっている)
ということになります。これを横展開できないかやってみた例を次回書きます。
<ハイブリッド経済(7)>換金できない、オープンソース文化
オープンソースとは何か?
初音ミクです。
なぜ無料でつくるのか。
オープンコンテンツがなぜ無料なのか、つくっている人たちはなぜつくっているのか、というのはニコニコ学会でプレゼンテーションをしていた宮下芳明先生のこの話がわかりやすいです。
ところで、コンテンツ産業に目を向けてみると、すごい階層構造があることにみなさん、お気づきかと思います。すなわち、アーティストという少数のコンテンツ生産者がいて、私たち大衆は聞かせていただく、読ませていただく、見させていただく、そしてそのかわりに金を払うという図式があります。
こういった考え方に毒された大人たちはこんなことをいつもいいます。ブログが始まると、個人の日記をさらして誰が見るの。そんなのどうせプロにかなわない文章クオリティなのに。
Youtube, そしてニコ動, そしてUstreamのようなサービスが出た時には一般人のホームビデオなんて誰が見るの、そんなのテレビのクオリティを越えられるわけがないのに。
そしてスマートフォンが発売された時には一般人がつくったアプリが動く携帯なんて何が面白いの、そんなの企業がつくってればいいじゃん、と言ってきました。
あげくの果てには若者にこんなことを言うんですね。
「作曲家になって食っていくつもりもないのに、どうして歌をつくるの。」
ということを言います。せっかくのばなのであえて言いたいと思います。
表現というのは人間の本質的な活動で、まず、限られた人々だけのものではありません。そして、そのモチベーションは全くお金ではありません。表現して、その表現を楽しんでもらったり、驚いてもらったり。それが、それさえあれば十分なんです。
そういう意味でニコ動のコメントというのは制作者のモチベーションを高めるための新しい通貨だと考えております。
(ちなみにニコニコ学会自体も東北大震災の後の原発批判でテクノロジーに対するアンチの波に危機感を持った独立行政法人産業技術総合研究所の江渡 浩一郎氏によって立ち上げられた、ユーザー参加型研究の取り組みです。グッドデザイン賞も受賞していて僕自身も面白い取り組みだと思います。)
オープンソース文化は、そのまま文化的活動
ものをつくることは商業的な活動でもありますが、文化的な活動でもあります。その影響力が、昔はちょこちょこつくるくらいだったのが、広く一般にも使えるくらい伝播しやすくなったがために商業的なものづくりと競合しはじめたのがオープンソースの問題だと思います。
だからどうしても共有経済の中で完結してしまいがちです。商業を混ぜるととたんにこの問題が噴出します。
ニコニコ学会はイベントとして運営もしていますが、その母体となるニコニコ超会議自体が赤字らしいので、商業経済にうまくむすびついているかというと、直接的にはなさそうです。コンテンツとして広告収入に寄与している部分はあると思いますが。
一方でこういうオープンな場はどんどん増えています。ソフトウェアにはじまり、デザイン、ハードウェア、そしてコンテンツなどなど。このオープンの流れは商業に反しています。ではこれは商業経済に接続することは難しいのでしょうか?
その中でもいい事例だよな、と思える取り組みを次回紹介します。